燃える時計 Note
燃える時計 Note
友人の森篤志くんが7年前に書いた小説「燃える時計」創作のためのメモ書きです。
十分に面白いので、無断転載します。
(友人にとっては、不本意だと思います)
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光のシャボン玉、割れて空に滲み出す。 同じく河なのだ ただ水が流れるだけの、ホースのような身体を持て余して、
側溝が通った道をわたしは崖の上からたどりなおす。
父の中の水がはじける音がした。
木を突き上げる水の存在を感じながら、
もうひとつだけ水音が増えるぐらい構いはすまいと、
その明るさというのは、太陽はもちろん、月や星の光ではなく、夜空へと滲み出した街の明かりだった。
限りなく孤独な群体生活 に向けて、わたしと父はさらさらと身体を広げ続ける。
一層大きな水音、一層大きな暗闇
絶え間ない圧迫と、高まりゆく興奮から我を忘れているうちに、わたしは空を飛んだ。
遠くに丸く空が切り取られているのが見えた。いつまでも大きくならない円に、業を煮やしているうち、瞬く間に円は大きく、輪郭は曖昧になる。下の方がぼんやりと明るく見えた。自分ではどうしようもない激流に身を委ねて、上へ上へと押し出される。光がわたしの横を走っていく。絶え間ない圧迫と、高まりゆく興奮から、耳に空気の綿を詰め込まれたようで外部から遮断される。代わりに内部の音がよく聞こえた。
肺で動脈血化された血液が左心室から大動脈へと押し出される音は、畑で鍬を振るう老人。サーモスタットが壊れて、水面に浮かび上がる熱帯魚たちは、あお向けの腹で春を待ち、循環器を巡るうち金魚となり、静脈を行くフナは、道に迷って泌尿器に紛れ込む。ひとり行くとまたひとりと、遂には皆が泌尿器に向かい、水槽は空になる。戻ってこない息子達の行く末を案じて、鍬を振るう手を休めた老人は、空を見上げ、そこに確かに息子達だと思われる金魚の形をした鰯雲を見つけ出す。呆けたように息を吐いた老人自身、フナになり、金魚になって息子たちの後を負う。水槽が消え、残っていた立方体の水もある日、ぱしゃんと形を崩す。濡れたFAX台の上で、壊れたサーモスタットが虫の鳴き声を真似ている。
鼓膜の破裂。ではなくそれは外部の復活を意味していた。シャンツェの助走路は、踏み切り台まであと少し。わたしは鶏の真似をする滑稽な人間の真似をする滑走中のスキーヤーの真似をする円滑な人生を送る人間になる。
わたしは空を飛んだ。
常に存在していた両脇の壁から、喪失感とともに吐き出されたわたしは、鳥のように、あるいはそれを真似する人のように足掻くことも出来ず、無様に地面に叩きつけられた。
垂直に切り立った落とし穴から、5メートル下の地面に着地失敗したわたしは、骨を六本折った。
フナは循環器を巡るうち金魚になり静脈を行く、
金魚になって静脈を行くフナは道に迷って
全身の静脈血は上下の大静脈から右心房に入り、右心室を経て肺動脈に駈出され、肺に入る。肺で動脈血化された血液は、肺静脈から左心房に入り左心室を経て大動脈に押し出される。
膀胱 腎臓から尿管を経て送られてくる尿を一時溜めておく嚢状の器官 底部前方に尿道が開き体外に通ずる。
腎臓 血液中から水分や窒素代謝産物などを濾過し、尿を生成。
循環器は丸ごと泌尿器へと変化する
どちらかといえば魚に近い食感のわたしも、ミンチにされてしまっては台無しである。
恥的存在
何処までもついて回るアンモニア臭はおそらく、わたし自身のものなのだろう。
同じ体験の繰り返しから逃れるために河へ向かう?
そうだ、こんな話を誰かに聞いた。→誰か=父という連想が出来るかどうか
わたしという存在が、灰であれ肉であれ息子であれ尿であれ長兄であれ百度落下し六百本の骨を折った者であれ関係なくわたしであるというような、理想的な空間。暗闇をそのように想像して憧れつつも、はたして本当にそうだろうかと懐疑する。未だ全てが未分化の、濃密な液体を想起して、父と分かれきっていない眼鏡のフレームを妄想する。あるいは、父と分かれきっていない袋の鼠を。あるいは、九匹の金魚によく似た父という名の雄牛。誰もそれが金魚ではないと、また雄牛ではないと言い切ることは出来ないだろう。しかしながら同時に、それを父だと断言することも憚られてしまうのだ。少なくとも一箇所では結ばれていた鎖、それさえも断ち切ってしまうような世界では、父という存在は否定されてしまうのではないだろうか。
わたしの首輪についた鎖の先を、父はいつも肉という言葉に繋ぎとめるのだった。
いつも首輪をつけられている意趣返しの意味合いもあったかもしれない。
あるいはわたしは、ネクタイの首輪で父を拘束することで、その先端を牛と結び付けようとしたのかもしれない。
三人兄弟の長兄で、今年二十三になるわたしは、弟二人が仕事に就いている(一人は町役場の役員に、もう一人はJRの駅員になった)にも拘らず未だに仕送りを受け、ぶらぶらとしてまともな生活を送っていない。当然、わたしが実家に戻ったからといって歓迎されるはずもなく、その度父は「お前のような穀潰しは他人の飯にもなりゃあすまい」と皮肉るのだった(わたしの首輪についた鎖の先を、父はいつも肉という言葉に繋ぎとめる)。しかしそんなわたしも以前父の定年に際して、何か贈り物でもしてあげようじゃないかという気持になった。下の二人に相談すると一も二もなく賛成した。親孝行の二人はもとよりそのつもりだったらしいのだがそこにわたしが割り込んだ形になる。内心では二人とも、あまりいい気持はしなかったに違いない。わたしは贈り物としてネクタイを主張し、下の二人はそれぞれ何かべつのものを提案したが、結局長兄であるわたしの意見を尊重して、父にはストライプ柄のネクタイを贈ることにしたのであった。
もしかするとあのブルドックが繋がれていたのも犬小屋にではなく、そこに書かれていたマルタという名前になのかもしれない。極端な話、マルタはわたしの考えているようにブルドックなどではなくて、耳掻きの後ろについたもさもさした綿毛かもしれないのだ。
混在していた性質が、陸に上がり再び顕現する。
未分化だった性質が陸に上げられ、新たな価値を設定される。
解説めいたもの
明るさと暗さについて
明るさの中で、人はその本来の多様性を現す。しかしながら、それだけの多様性にも拘らず、ほとんどの場合人は一面によってしか見られることはない。残りの多面的わたしは何処に行ってしまったのか?
暗がりにおいて、人は、人であることを必要とされない。それはある種の自由だ。もっともそれは一面さえも見られることはないということと同義かも知れず、明るさから逃げてきたものもいたたまれずまた明るさへと逃げ帰るしかない。
明るさ=空間的広さの喪失。全ての存在の均質化作用。三角パンは三角へ、プロ野球選手のポスターは四角へと転換される。
暗がり=二種類の暗がり
広大な暗がり→不安を呼び起こす
限定された空間における暗がり→ある種の安堵感